リネア・ニコライセン先生の手記から
わたしが8才のときに、神様はわたしの
将来について語りかけてくださいました。
中国への宣教師から、アジアの人々に
イエス・キリストの喜びを伝える
必要について聞いたのです。
18才のとき、わたしは生涯キリストに
従い、主が望まれるところなら
どこにでも行こうと決心しました。
しかし落ち着いて考えてみると、
わたしには宣教師になるような
能力などあるようには思えなくて、
心の中で神様と議論しました。
それでも主は、
主がわたしのために用意しておられる働きのために
準備をしなさいと語り続けてくださったのです。
☆
2年たって、スウェーデンの都市オレブロの聖書学校へ行きました。
主は1歩1歩わたしを導いてくださiいました。
多くの障害はありましたけれど、神様の呼びかけに
忠実でありたいというのがわたしの願いでした。
当時はずっと、中国に行くつもりで準備をしていました。
ところが1945年に第二次世界大戦が終結し、
中国は宣教師に対して扉を閉ざしてしまいました。
それでもわたしは、これで終わりではないと感じて
準備をしつづけながら祈りました。
「主よ、あなたの導きのとおりに、どこにでもまいります」
☆
1947年に、神様がわたしに日本に行くように望んでおられる
という確信が与えられました。しかし日本に行ける
"青信号"が出るまでに、もう4年かかりました。
神様は決して、いそがれません。
それは、次の段階へ進むべき時を
一番よくご存知だからです。
☆
1951年10月1日、長い船旅を終えて、
3人の宣教師たちと共に、大阪港に着きました。
ついに日本の地に立つことができて、幸せでした。
最初の2年間は、ヤンソン宣教師の堺市での
働きを手伝いながら、日本語の勉強もしました。
1953年の初め、神様は、他の所へ行って
新しい働きを始めるようにお語りくださいました。
堺周辺の小さな町々は、どこもふさわしそうでしたが、
このことには本当に神様の導きがほしいと願っていました。
祈りましたが、そのつど、床に広げた日本地図の、
ただ一つの地名だけがわたしの目にとまりました。
それが八尾市だったのです。
☆
当時、町の人口は6万人。
貸してくださるという家の2階の部屋を見に行って、
借りることを決めたとたん、神様の平安が
わたしの心に満ちるのを感じました。
毎日、ギターや楽器を持って、通りへ出て行きました。
わたしたちが立ち止まった所どこででも、
子供たちが大勢集まり、いっしょに
「いつくしみ深き友なるイエス」を歌いました。
とても感動的なときでした。
1955年に八尾福音教会が設立され、
1957年に八尾駅近くに教会堂が建てられたとき、
どんなに感謝したことでしょうか。
☆
これからも、神の愛が豊かに注ぎだされていき、
今は迷いでている人々も、人生の本当の意味を見出して、
いつまでも主とともに喜びのときをすごすことが
できますように、祈っています。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって
父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。
聖書(ヨハネによる福音書15:16)